前回の続きです。
参考:ツイッターで「あんたに障害の何が分かる」というリプを受けて感じたこと。
ツイッターで交流の無い方から投げられた「あんたに障害の何が分かる」というリプに過剰反応し、ネガティブ思考に陥ってしまった私。
落ち着いてから振り返ると、このリプにドーンと落ち込んだのは、私自身が「精神障害・疾患を語ること」について、
「そんな資格があるのだろうか?」
と定期的に自問自答していたからだと思います。
精神科医として、医学的な知識をまとめたものを発信することには抵抗はありません。
ただ、当事者やその家族の目線を含んだ発信をするとき、病気や障害を抱えて生きていくための考え方のヒントを書くときなどは、実は少し気にしていました。
前回の内容にも通じますが、目の前にいる1人の人に向かって言葉を選ぶことと、ツイッターやブログで言葉を選ぶことは別次元というか、どちらも難しい側面はありますが、私の場合、不特定多数の人が目にするネット上の方が、より言葉を選びます。
実世界と違い、私が過去に病んでいたことも多くの人が認識してくださっていることも慎重になる一因です。
変に不安を与えないか、気を使われ過ぎないか、などは少し意識しています。
SNSやブログは相手の反応は直接見られませんし、不快な思いをされた人がいても、その多くはそっと閉じるだけでしょうから、ネガティブなフィードバックは返って来づらいツールです。
「誰か1人の人でも、その心に寄り添える言葉であればいい」
「色んな状態、背景の人がいて、すべての人にぴったり来る言葉は無い」
上記のような謙虚な気持ちでメッセージを送ることが大事だと感じています。
つらい体験をしていなければ、障害を語る資格が無い?
私は自分自身が精神疾患を患ったことがあり、若年発症して障害年金を受給している身内もいます。
なので、心のどこかで、仕事としてだけ「精神障害」に関わっている人より、違う視点で発言をすることが許されるのではないかと思っていました。
その一方で、当事者としてもその家族としても、もっとつらい思いをしている人もいるわけで、
「たいした苦労もしていないのに、当事者やその家族目線でメッセージを発信する資格は無いのでは」
とも、思っていました。
あるある話ですが、他者に置き換えて考えてみると、そうでもないんですよね。
「100のレベルの体験をした人しか100のレベルのことを語ってはならないのか」
と言うと、全くそうは思いませんし、そんな条件が課されるなら、みんな自分の考えを表現しづらくなります。
「つらさの程度」「生活上の困り度」などは、1人1人異なるもので、同じ状況でもどれくらいつらく感じるかもそれぞれですから、他者と比較する自体無意味です。
これが、こと自分のことになると自意識過剰になってしまうんですよね。
私が医療従事者でなくても、自身に病気の既往がなくても、身内に障害者がいなくても、別に自由に語っていいことなんですよね。
少し不調になると、そう思えなくなるから困ったものです。
「あんたに障害の何が分かる」
この言葉の背景には、以下のことが窺えます。
・その人が今とても苦しい状況にあること
・理解者がいないか、乏しいこと
私のツイートが「絵空事」や「できもしない助言」のように感じられ、現実世界でぶつける先の無い言葉を私にぶつけてきたのかもしれません。
※もちろん、前述の通り、私の書くことが全く現状にそぐわない、助言として成り立たない場合も多いにありますので、それはご容赦を。
その方の望むことは、病気が良くなることはもちろん、
・周囲が十分に理解してくれること
・しんどい時に周囲からの配慮があること
・病気はつらいけれども励まし合える仲間がいること
などでしょう。
私は直接にその方に介入することはもちろんできませんから、その方の治療がうまく行って、何でも話せる人ができることを祈るのみですが、
現実世界で、その方に関わろうとしている人にも攻撃的になり、他者とのつながりをシャットアウトしていないかだけは心配な点です。
しんどい時は素直になれないものだけど
話は逸れますが、
私自身の経験でも、しんどい渦中にいる時は、その症状がゆえに他者の助言を素直に受け入れられなかったり、穿った見方をしてしまったり、心配してくれていることは重々承知の上で反発してしまったりしました。
状態の悪化時にはある程度仕方のないことです。
ただ、少し助言の方向性が間違っていたり、「分かってないなぁ!」と感じることがあっても、一生懸命自分のために考えようとしている人の存在は大事にしたいものです。
精神障害について、大いに語りたい
前述の通り、「障害について語ること」にもちろん資格はありません。
当事者であろうが、その家族であろうが、医療者や支援者であろうが、まったく近しい人に障害を持つ人がいなかろうが、誰でも語っていいことです。
個人的には、ネガティブな意見や偏見の混じった意見であっても、まずは多くの人が話題にすることが大切だと思います。
人間関係の話で、
「好き」の反対は「嫌い」ではなくて「無関心」
なんて言うことがありますが、
精神障害についても、
「肯定的に捉える」の反対は「否定的に捉える」ではなくて「無関心」
ではないかと思います。
※いくら説明しても強い偏見から脱することができず、関わることで当事者を苦しめてしまうような人、標準的な医療を否定し治療を中断させるように働く人は「否定的に捉える」の範疇を超え、建設的な議論はできかねると考えます。
「無関心」層を、まずは「否定的に捉える」層であっても、ワンランク引き上げることが大事です。
そのためには、そこかしこで精神障害が話題になっている、医療者でも当事者でもなくても精神障害についてカジュアルに話し合われる社会になることが必要だと思います。
堀江貴文氏が著書の「健康の結論」の中で「自殺」について啓発していましたが、精神科医療と全く別分野にいる人が話題にしてくれるのは大変意義のあることだと以前に書きました。
精神疾患・精神障害は、社会問題としての側面があります。
精神障害の有無、精神障害者への日常的な関わりの有無に関係なく、みんなで理解を深めて、どうすれば今つらい人がより良く、よりラクに暮らしていけるのかを考えることは、この国にいる人みんなにとって有益なことで、みんなの幸福につながることだと考えます。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
「精神障害を語ること」
あなたはどう考えますか?